・Joseph Gilles Henri Villeneuve  ジョゼフ・ジル・アンリ・ヴィルヌーヴ
                                         1950年1月18日~1982年5月8日
 自動車レースを始める前はスノーモービルの選手として活躍。1973年に自動車レースに転向。
 北米大陸を転戦して行われるフォーミュラ・アトランティックのチャンピオンになる。
 1977年、76年のF1ドライバーズ・チャンピオンのジェームス・ハントがフォーミュラ・アトランティックに
 ゲスト参戦した際、ジル・ヴィルヌーヴに打ち負かされ、ジェームス・ハントがジルをマクラーレンに推薦
 し、同年7月17日第10戦イギリスGPでF1デビューを飾る。
 デビュー戦のイギリスGPでの走りがエンツォ・フェラーリの目にとまり、フェラーリ・チームにスカウトさ
 れる。 この年、フェラーリ・チームと確執があったニキ・ラウダがチャンピオン・タイトルが決まると2戦
 を残しフェラーリを抜けてしまった。 そして、ジルはニキ・ラウダの代わりとして第16戦カナダGPから
 フェラーリ・デビューを果たす。
1977年
 この年は、ジルは第16戦の
 カナダGPと最終戦・日本GP
 の2戦のみの出場。
 最終戦の日本GPでは、ティレ
 ルのロニー・ピーターソンに
 ジルが追突。ジルのマシンは
 舞い上がり、立入り禁止区域
 に落下し大破した。しかし、立入り禁止区域にも関わらず観客がいたため警備員を含め2名が死亡。
 ジルはマシンが大破したのにも関わらず無傷だった。 当時の日本はモータースポーツに対する理解
 が低く、ジルが永久追放処分なり、その事故がキッカケでF1レースは10年間、日本で行われなかった。
1978年
 この年からF1フル参戦となる。
 この頃は、前年にロータスが
 持ち込んだグランドエフェクト
 カー時代が始まり、フェラーリ
 は、それに乗り遅れていた。
 不利な状況の中、開幕戦8位
 2戦目から4戦連続リタイア。
 しかも第4戦・西アメリカGPで、首位を走っていたクレイ・レガツォーニに追突して大クラッシュを起こし
 再び物議を醸す。 しかし、その後徐々に成績を上げ、第6戦ベルギーGPで4位、第12戦オーストリア
 GPで3位表彰台。そして最終戦の地元カナダGPでF1初優勝を果たす。
 フェラーリ加入当初、ティフォシ達からは疑いの目で見られていたが、この年の走りで認められた。
1979年
 フェラーリの水平対向エンジン
 は構造上、車体下面にベンチュ
 リー構造を作るのに適してなく
 グランドエフェクトの恩恵を受け
 る事ができなかったが、この年
 グランドエフェクトを得るために
 水平対向12気筒エンジンを
 使いながら車体の大改造を行った。力ずくともいえる取り繕いだったが、水平対向12気筒エンジンが
 元々パワフルなエンジンであったので、以前よりも競争力は高まった。
 そんな中、ジルにとっても最も良い成績を得られたシーズンになる。
 第3戦・南アフリカGP、第4戦・西アメリカGP、最終戦・東アメリカGPで3勝を挙げ、タイトル争いにも
 絡むほどの勢いだった。全15戦の内6戦でファステスト・ラップも叩き出している。
 しかし、最終的にチャンピオンシップ・ポイントはチームメイトのジョディー・シェクターに対して4ポイント
 差で2位に終わり、ジョディー・シェクターがチャンピオンとなる。これにはエースドライバーのジョディー
 ・シェクターに対して、チームオーダーを忠実に守ったからではないかと言われている。
 第8戦フランスGPにおいては、ラスト3周のルノーのルネ・アルヌーとのサイド・バイ・サイドの2位争い
 は歴史に残るバトルを繰り広げた。 また第12戦オランダGPでのリアタイアを破損しながら3輪走行
 を続けたのも有名な話だ。
1980年
 グランドエフェクトカーの全盛期
 で、しかもターボ・エンジンが
 実力を蓄えつつあった。
 フェラーリはT4を発展させる形
 で、モノコックに手を入れ、新し
 いサスペンションと空力パーツ
 を付加、更にエンジンのシリン
 ダーヘッドに手を入れてエンジン幅を縮め、ベンチュリーを拡大する等の改造が加えられたT5を誕生さ
 せた。 しかし、T5は一転して戦闘力を失い1980年は苦難の年となる。
 ジルは予選では、しばしば上位に食い込んだが、結局、全14戦中で4回入賞、7戦でリタイアとなる。
 前年チャンピオンのチームメイトであるジョディ・シェクターは、5位入賞が1度だけで、予選落ちする事
 もありスランプに陥り、この年で引退を決意。 シェクターの後釜にディディエ・ピローニが加入し、ジル
 はエース・ドライバーに昇格した。
1980年
 1980年のフェラーリ低迷の
 原因として V6ターボ・エンジン
 開発による技術力が分散 した
 事も考えられる。
 そして、80年半ばに新開発の
 V型6気筒ターボエンジンを
 搭載した新しいプロト・タイプ
 マシンを公表しました。実戦には投入されていませんが、イタリアのイモラ・サーキットでのテストでジル
 が走らせています。 このマシンを元に開発、改良されて81年に登場する126CKとなります。
1981年
 1981年、フェラーリは満を持
 してターボマシン126CKを
 戦線に繰り出した。 開発が
 進んだとはいえ、フェラーリの
 ターボV6はまだスロットル・
 レスポンスに問題を残しており
 先行するルノー・ターボに比較
 して未完成な状況にあった。 126CKはエンジンパワーが大きく直線では速かったが、ターボエンジン
 特有の酷いターボラグがあり、更に旧態なシャーシ設計が災いし、タイヤに厳しくてナーバスな操縦性
 のマシンで、ジルに「真っ赤なとっても速いキャデラック」と言わしめた。
 他のチームに比べて総合性能に劣るもののジルは時折光る走りを見せた。 第6戦モナコGPでは狭い
 市街地コースをドリフトしながら、ガードレールとの距離をセンチメートル単位でコントロールする走りで
 予選2位。決勝レースでもアラン・ジョーンズを終盤に抜き去り優勝を飾る。次戦第7戦スペインGPでは
 後続の4台のマシンを巧みに抑えこみ、そのまま先頭で逃げ切り優勝した。
 雨の中で行われた第14戦カナダGPではレース途中で破損したフロントウィングがめくれ上がり、視界
 を遮られた状況での走行となり、ノーズごとウイングを失ったが、そのまま走行を続けて3位表彰台を
 獲得している。
1982年
 1982年、ターボV6の性能を
 活かす本格的なベンチュリー
 カー126Cは他のチームと
 遜色ないマシンとして登場。
 これでジルもチャンピオンを
 狙える環境が整った。
 開幕戦の南アフリカGPと第2
 戦ブラジルGPはリタイア。
 第3戦・西アメリカGPは失格
 となったが、第4戦サンマリノ
 GPでは ヴィルヌーヴがトップ、
 チームメイトのピローニが2位
 と、2台のフェラーリが他を大き
 く引き離す状態でレースが進み
 最終的にはジルが2位、チー
 ムメイトのピローニが優勝し
 フェラーリ1、2フィニッシュを
 飾った。
 しかし、次の第5戦ベルギー
 GPで悲劇が起こる。
 予選中、スロー走行のマシン
 をジルが避けようとして、その
 マシンに乗り上げ大破壊。
 帰らぬ人となった・・・・・
 
ジルのドライビングスタイルは、大胆にアクセルを
踏んで、カウンターステアを当てながらマシンを横
向きに滑らせて走る豪快なタイプだった。果敢な
走りで先行車を次々に抜いていくドラマチックな。
走りで観客の人気が高かった。ジル自身、「ポール
ポジションスタートしてそのまま優勝するより、
最後尾からスタートして6位になるレースの方が
いい」という発言も残している。
エンツォ・フェラーリは、ジルと同様に身の危険を
顧みない勇猛な走りで多くのファンを魅了した伝説
のドライバー、タツィオ・ヌヴォラーリになぞらえて、
亡き息子のディーノと同様にジルを愛した。
エンツォがドライバーに親しく接するのは珍しい事
だったので、余程ジルの走りに魅了されたのでしょうか。
また、上の写真でもわかるように壊れたフロント・ウイング、バーストしたタイヤ、白煙を上げるエンジンと
いう状況でも勝負を投げないばかりか、カウンターステアでコーナーをドリフトで走り抜け、跳ね馬に更に
鞭をいれる走りを見せられたら誰でも興奮し魅了されるでしょう。
その一方で、勇猛な走りがクラッシュを呼びやすかった事も指摘されており、いくつかのレースで「危険」
と具体的な非難を浴びたこともある。 勇猛な走りの一因として、ジル全盛期のフェラーリがマシンとして
は低迷期だったというのもあるかもしれない。
しかし、ジルはどんなに激しいバトルの最中でも、他のマシンに故意に接触するような卑怯な真似は
決してせず、オーバーテイク後に相手のラインを残すなど常にクリーンでフェアなバトルを展開した。

 チームメイト、ディディエ・ピローニとの確執。 そして悲劇へ・・・
 第4戦サンマリノGP、ジルがトップ、ピローニが2位と2台のフェラーリが他を大きく引き離す状態で
 レースが進む。レース終盤には「燃費に注意を払い、無用な戦いを避けるように」との意味でピットから
 「スロー」のサインが出され、ジルはリスクを冒さず、ペースを落とした。しかし、2位のピローニはレース
 終盤にジルを追い越してしまった。このレースは政治的な対立から多くのチームがボイコットし、僅か
 14台の出走であったため、ジルは当初「見所の減ったレースで観客を喜ばすための余興」だと考え、
 トップを奪い返した。しかし、ピローニは最終ラップで再度抜き返す。裏切りに気付いたジルはペースを
 上げてピローニを追ったが、結局2位に終わった。表彰式でシャンパンを手にはしゃぐピローニの後ろで、
 ジルは無言を通したが、内心はピローニに対して激しく怒っていたといわれる。
 ジルはこの出来事以降ピローニを拒絶。「もうあいつとは口を利かない、チームメイトとしても扱わない」
 と断言し、両者の関係は修復不可能なほど悪化してしまう。
そして、悲劇の舞台となった第5戦ベルギーGPの
予選2日目、ジルはピローニが自身の予選タイム
を上回ったと聞くやいなや、再び予選アタックへと
飛び出していった。
ピローニのタイムを更新することができないまま
タイムアタックを続ける中、最終コーナーのS字
カーブでスロー走行中のヨッヘン・マスのマーチに
遭遇。マスはジルの接近に気付きレコードラインを
譲ろうとしたが、ジルも同じ方向に動いてしまった。
ジルのマシンは推定時速230km/hに達していたと
いわれる。
結果この、ジルのマシンの左フロントタイヤがマス車の右リアタイヤに乗り上げ、ジルのマシンは回転しな
がら宙に舞い上がった。マシンは前部から路面に激突して150m垂直状態のまま横転して大破し、この時
の衝撃でシートベルトが引きちぎれ、ジルの身体はマシンから投げ出され、コース脇のフェンスに叩きつけ
られた。現場や病院で救急隊により蘇生処置が施されたが、ちょうど支柱のあった場所に叩きつけられて
いたジルは頚椎その他を骨折しており、その日の夜9時過ぎに死亡した。32歳であった。
1982年5月8日の出来事である。
 
ジルのF1の短い歴史の中で優勝が8回、ポールポジション2回、ファステスト・ラップが8回、増してや
ワールド・チャンピオンも獲得しておらず、記録的に見れば大した事はありません。
しかし、非凡なる才能、人々を魅了する豪快な走りながらもクリーンな姿勢などから「記録より記憶に残る
ドライバー」、「史上最高のF1ドライバー」と賞賛される。
ジルがF1で初勝利を挙げたのが地元カナダのイル・ノートルダム・サーキットでしたが、没後、カナダ人
としての偉業を讃え、イル・ノートルダム・サーキットはジル・ヴィルヌーヴ・サーキットと改名された。
その後もカナダで開催されるF1グランプリはジル・ヴィルヌーヴ・サーキットで行われる。
そして、このサーキットのスタート・ライン上には「 Salut Gilles 」(やあ!ジル)という文言が記されている。
 
また、フェラーリの本拠地であるイタリアのモデナ県マラネッロにあるフェラーリの専用テストコース近くに
「ジル・ヴィルヌーヴ通り」( Via Gilles Villeneuve 」と命名された通りがあり、通りが始まる交差点の角に
ジルの胸像が立てられている。
1982年、最後の決勝レースとなったサンマリノGPのイモラ・サーキットには、そのレースでのスタート
位置であった3番グリッドにはカナダ国旗が記されていて、1980年に高速クラッシュを演じたコーナーは
「 Curva Villeneuve 」(ヴィルヌーヴ・カーブ)と命名された。ここは、緩やかに右にカーブするコーナー
でしたが、1994年のサンマリノGPで、ローランド・ラッツェンバーガーが
カーブ)」と命名された。このコーナーでは、1994年のサンマリノGPでローランド・ラッツェンバーガーの
死亡事故を受けて、シケインに改修された。
 
ジルのマシンに付けられた1981年から1982年までのカーナンバーは「27」でした。これは、元々ウィリ
アムズが付けていたカーナンバーでしたが、1980年にウィリアムズがチャンピオンチームになったために
交換で与えられた番号でした。当時は各コンストラクターの番号が固定化され、新興チームへ大きい番号
が割り振られており、名門フェラーリが27番を付けるのは不振の象徴として嫌われていたが、ジルの獅子
奮迅の活躍と悲劇の死により、27番はティフォシから「偉大な番号」として愛され、フェラーリのエース
ドライバーを象徴するものとなった。
Gilles, through all eternity !