T4の発展型。新しいサスペンションと空力パーツを付加、さらにエンジンのシリンダーヘッドに手を入れてエンジン幅を縮め、ベンチュリーを拡大し、モノコックに入れる等の改造が加えられました。
そうした改造を施したにもかかわらず、T5は一転して戦闘力を失い、前年のワールド・チャンピオンであるジョディ・シェクターが予選落ち・・・という屈辱すら与える事になります。
原因の一つとしてV6ターボ開発による技術力が分散した事も考えられる。
80年シーズン半ばにして、新開発のV型6気筒ターボエンジンを搭載した新しいマシンを公表しました。
それが、126C turboで、写真下段のミニカーです。 イタリア、イモラ・サーキットでテストされた時のマシンです。
このマシンを元に開発、改良されて81年仕様の126CKとなります。
上段の312T5は、1980年の開幕戦であるアルゼンチンGP仕様なのですが、中段のT5はどのレース仕様かは定かでありません。
サイドポンツーン上部の穴の形状と数が違ったり、前後のウイングの形状も違います。
この頃は苦戦していたので、改良の過程での変化と思われますが、資料不足で定かではありません・・・・・
「Twin Crono」というメーカー自体謎(笑)

312T5 (1980) Mattel
312T5 (1980) Twin Crono
126C turbo (1980) BRUMM

1981年、フェラーリはルノーに続きターボエンジンを搭載した126Cをデビューさせる。
79年にルノーがターボエンジンを熟成させるまで、コスワースDFVのV8勢に対してパワーでは優位だったフェラーリだったが、ルノーのターボエンジンの熟成により、パワーの優位性はなくなり、更にウィングカー時代の到来で、幅の広い水平対向エンジンがネックとなっていた。
80年から、126Cの開発が進められていた。
126CKに搭載されるターボエンジンは、120度のバンク角を持つV6ツインターボ。
126CK (1981) BRUMM
しかし、同じV6ツインターボでもルノーのエンジンとは、タービンやエキゾーストマニフォールドのレイアウトがまったく逆になっている。 Vバンクが120度になっているのは、通常だと、Vバンクの外側にあるエキゾーストマニフォールドをVバンクの内側に配置することによって、ボディのサイドウィングの有効面積をできるだけ広く確保するためである。 81年シーズンが開幕して最初の3戦はジル・ヴィルヌーヴ、ディディエ・ピローニ2人ともメカニカル・トラブルでリタイアしている。このシーズンは第6戦モナコGPと第7戦スペインGPでジル・ヴィルヌーヴが2度優勝している。

1981年、フェラーリはターボマシン126CKを戦線に送り出したものの開発が進んだとはいえフェラーリのV6ターボはまだスロットルレスポンスに問題を残しており、先行するルノー・ターボに比較して未完成な状況にありました。それにもかかわらず、ジル・ヴィルヌーヴは2勝を記録しました。
そして、82年に向けてV6ターボの性能を活かす本格的なベンチュリーカー、126C2を開発する。 ハーベイ・ポスルズウェイトのフェラーリ第1作目のマシン。 C2の車体はハニカム材を使った「モノコック」であった。それまでのフェラーリは軽合金製のフレームに板材を貼り付けたフェラーリ独自のシャシーを使い続けていた。
ここでライバルチーム同様のモノコック構造を採用した事は、フェラーリのグランプリ・カーにとって一つの大きな転機であった。 優秀なシャシーを得て、フェラーリのV6ターボはその威力を発揮する。
しかし、シーズン半ばのベルギーGPの予選中にジル・ヴィルヌーヴがヨッヘン・マスのマーチに乗り上げクラッシュ、事故死してしまいます。
ほどなくしてドイツGPでピローニがアラン・プロストのルノーに後方から激突し、再起不能の負傷を負ってしまう。
こうしたレギュラードライバー2名の相次ぐ不幸に見舞われ、ドライバーズチャンピオン獲得は不可能となったが、代役として起用されたパトリック・タンベイとマリオ・アンドレッティが健闘し、最終的に126C2は延べ3勝を記録、3年ぶりとなる1982年のコンストラクターズチャンピオンを獲得することができた。
同じ126C2が5台もありますが、レースによってそれぞれ仕様が違います。 特に前後のウィングですね。
3段目の互い違いのリア・ウィングはF1第3戦アメリカ西GP、ロングビーチでの仕様で、当時の規定でリヤウイングの幅は1,100mm以下との規定を拡大解釈したものだったが、これは当時流行った水タンクを使用した車重の軽量化に抗議するものだった。
ヴィルヌーヴが3位入賞したが、このため失格となってしまった。
126C2 (1982) MINICHAMPS
126C2 (1982) addition of a perfume
126C2 (1982) BRUMM

126C2 (1982) BRUMM

126C2 (1982) BRUMM

ウイングカーは、丘状の地形を走行する時等にボディ下面に一気に空気が入り込むと、舞い上がってしまう。 これによる事故が起きたことから、1983年にフラットボトム規定が適用され、車体下部の大部分は地面に平行な平面で構成されなければならなくなった。
前年コンストラクターズ選手権を獲得したフェラーリは勢いに乗ってフラットボトム規定に対応、モノコックにも部分的にカーボンファイバーを使用、ターボV6に組み合わせた。
そして、第8戦まで126C2Bが使用され、第9戦からフルカーボン・コンポジット製モノコックで剛性が増し、戦闘力も向上した126C3を投入します。
全15戦中8戦でポールポジションを獲得、4勝を挙げて前年に引き続きコンストラクターズ選手権を勝ち取った。一方、ドライバーズ選手権はアルヌーとタンベイにポイントが分散して、それぞれシリーズ2位、3位に留まった。
しかし、マシンの実力は充分なものとなった。

126C2B (1983) Fabbri Ferrari Collection
126C3 (1983) ixo

126C4は、C3の発展型として生まれたが、前年までの勢いを引き継ぐ事はできなかった。
思い通りの戦績が残せなかったのは、ライバルチームの戦力が上がって相対的な性能が低下したからに他ならない。
まず、前年からグランドエフェクトを制限するためにフラットボトム規制がひかれていた。
そのため、各チームともグランドエフェクトによるダウンフォースを失い、もう一度空力対策を考え直さねばならなかった。
フェラーリは、この空力性能の見直しに立ち遅れた。 グランドエフェクトを苦労の末獲得したフェラーリにとっては非常に皮肉な状況となった。 さらにTAGポルシェやホンダなどの第2世代のターボ・エンジンが力を発揮し始めたことも無視はできない。
フェラーリにとって、またもや時代の曲がり角での苦悩の状況に追い込まれる。

126C4 (1984) BRUMM
126C4 (1984) BRUMM

この年、フェラーリのターボ・エンジンは変化を始める。 120度V6のレイアウトはそのままであったが、ブロックはアルミ化され、独特だった吸排気系の配置は入れ替えられた。
フラットボトム規制でベンチュリーを作ることができなくなった為、低効率の取り回しを敢えてする必要がなくなったためだ。このマシンから型式名のつけ方が変わり、C4の発展型であったにもかかわらず、156/85と呼ばれている。
156/85はシーズン当初にはそれなりの戦績を収めたが、後半戦で失速する。充分な空力性能が得られず、マシンの総合戦力が安定しなかったためだ。
残り5戦全てノーポイントで終わってしまったミケーレ・アルボレートはワールド・チャンピオンシップ・ポイントで2位に留まった。
F156/85 (1985) ixo
F156/85 (1985) Mattel ELITE

フェラーリF1の低迷期を代表するマシンですね・・・(笑)
1986年、フェラーリは風洞設備の開発とインディカーの設計開発に勢力を注ぎます。
そんな状況の中で開発されたF186は、ウイリアムズ・ホンダ、ロータス・ルノー、マクラーレン・TAGポルシェ等のライバルに完全敗北。
そして、80年シーズン以来となる未勝利に終わってしまいます・・・。

F186 (1986) Fabbri Ferrari Collection

苦戦を強いられる中、1987年にはターボエンジンのパワーを過給圧と燃費で制限する規制が動き出していた。 その為87年は195リッターのガソリンと4バールまでの過給圧で戦わなければならなかった。 ターボ時代の初期に開発されたフェラーリのエンジンには、こうした制限を受け入れる余裕はなく、高効率の第2世代ターボ・エンジンが必要とされていた。 その為フェラーリはマシンを一新して形成の挽回をはかる。 それまでの120度V型6気筒を捨てて、
F187 (1987) ixo
新たに90度V型6気筒エンジンを製作。シャシーもグスタフ・ブルナーに新装させた。 さらにフェラーリは、マクラーレンを離れていたジョン・バーナードを迎え入れ、このマシンの磨き上げを任せた。
ブルナー、バーナード、そしてポストレスウェイトまでがこのマシンの熟成にかかり、シーズン終盤になってようやくこのマシンは狙い通りの性能を発揮するようになった。
シーズン終盤の2戦、日本GPとオーストラリアGPでF187は無敵のホンダを破り、2連勝を飾った。

80年代のターボ時代の最後のマシン。
この年、自然吸気エンジンを投入する予定でしたが、V6ターボの方が有利と判断し、F188を投入する。 ターボに課せられたハンディは、ガソリン150リッター、過給圧2.5バールと更に重いものとなっていたが、それでもV6ターボの方が戦力になると思ったらしい。
しかし、フェラーリお得意の内部抗争勃発!頼みのジョン・バーナードは実戦から遠ざけられていまい、F188の熟成は進まなかった。
そのため前年の勢いを無くしてしまった。
更に総帥エンツォ・フェラーリがこの年の8月に亡くなる。 エンツォ・フェラーリの死から1ヶ月後のイタリアGPで1、2フィニッシュを飾るものの前のような経緯で勢いを無くしたフェラーリはそれだけに留まった。
これまで時代の最前線に立っていたはずのフェラーリはいつしか流れにとり残され、苦しみ、尻つぼみのまま舞台を降りざるをえなかった。そして、ターボ時代の終焉となる・・・。
F188C (1988) ONYX
F188C (1988) ONYX

F1でセミオートマを初めて採用したマシン。
3500cc自然吸気エンジン規定に対応するためジョン・バーナードがイギリスにギルフォード・テクニカル・オフィスという開発部を設立し設計開発にあたった。
当初1988年の開幕戦から導入を予定していた開発コード639のマシンは、完成が夏まで遅れたためテスト車になった。 その639は電子油圧制御のセミオートマを採用していた。
そして、1989年には639を元に改良設計され、635馬力65度V12エンジンを搭載するF189(640)を実戦投入する。しかし、テスト中には、そのセミオートマの故障がちょくちょく発生し、開幕戦のブラジルGPでは完走も出来ないと言われていましたが、優勝しました。
しかし、その後セミオートマ・システムは何度も壊れ苦戦する事となります。
ナイジェル・マンセルが2勝、ゲルハルト・ベルガーが1勝を挙げた。
F189(640) (1989) ONYX
F189(640) (1989) ONYX